少し長話になりますので、お時間の許す方のみ、お読みください。
その日、転勤のための事務作業や後片付けに追われ、帰宅の途についたのは午前3時過ぎでした。
引っ越し当日だというのに荷造りをしていなかった私は、早く帰宅し朝までに荷造りをしようと急いでいました。
ある交差点を通過した時、パトカーがサイレンとともに私を停めました。
そして、私はスピード違反と信号無視で、捕まりました。
今日は最悪の日だと思いながら帰宅したのは朝の4時過ぎのことです。
朝の10時には引っ越し屋さんが来ることになっていたため、荷造りをしなければならなかったのですが、いつの間にか寝てしまった私は轟音とともに飛び起きました。
私の身体は宙に浮き、トランポリン状態です。一瞬何が起きたのか、さっぱり分かりませんでした。
タンスや棚が倒れ、私を押し潰してきました。そのうち、縦揺れが収まり、今度は横揺れにかわりました。その時初めて地震だと気づいたのです。
私を押し潰そうとするタンスや棚から抜け出し、外に出ると、電柱は倒れ、地面は地割れし、水が噴出していました。車は横転し、木造家屋は倒壊しています。家族の名前を呼ぶ声や悲鳴が聞こえました。少しして、各所から火の手も上がりはじめました。
近くの学校に避難した私は集まってきた人々の持っていたラジオで、淡路島を震源とする地震だということを知りました。
1月17日、のちに阪神大震災と呼ばれる地震でした。
集まった人々は一度帰宅し、身の回りのものを持って、また学校に集まろうということになり、私も帰宅しました。
数十分しか睡眠をとっていなかった私は身の回りのものや金銭をバッグに入れているうちに眠くなり、そのまま寝てしまいました。
気がつくと、「太田さん、大丈夫ですか?太田さん、大丈夫ですか?」という大きな声で抱きかかえられるように起こされていました。
それは引っ越し屋さんでした。
朝が早いこともあり、前日入りしていた引っ越し屋さんが近くで待機してくれていたそうで、心配になって来てくれたとのことでした。
ひたいから出血していた私を抱きかかえながら、心配そうにしている引っ越し屋さんに実は荷造りもしていないし、地震の後に二度寝してしまいましたなんて言えず、「どうにか大丈夫そうです」とだけ答えたのを今でも鮮明に覚えています。
余談ですが、本当に良い引っ越し屋さんでしたので、震災の後も何度か引っ越しをしましたが、毎回その引っ越し屋さんの会社にお願いしました。
私は一番被害が大きかった長田区に住んでいたのですが、当時の長田区は木造が非常に多く、ある程度の高さのビルといえば長田区役所ぐらいしかありませんでしたし、区役所であれば何か情報が入るだろうと思い、長田区役所に向かいました。
長田区役所には多くの人が集まり、足の踏み場も無い状態でしたが、どうにか最上階に行くとみんなが「戦争のようや」と言いながら、泣いていました。
外を見ると、長田の町が見渡す限り燃えています。電気が無い中、赤い炎だけがメラメラと勢いを増し、広がっていく様子が見えました。その後、火は三日三晩燃え続けました。一面焼け野原という言葉は知っていましたが、本当にそれを見ることになるとは思いもしませんでした。
警察はパニックに陥り、生まれて初めて、消防署が火事になっている光景を見ました。
今でも悔やまれるのはあと一日でも早く自衛隊が来てくれていれば、多くの方々が助かったのではないかということです。
自衛隊の出動が遅れたのは、政治の決断ミスと言わざるを得ません。
一般人には瓦礫を退かして、埋まっている人を助けることができませんでした。
私も手を切り、足を怪我しながら、瓦礫を退かしましたが、数人で退かそうとしても、そう簡単には退かすことができませんでした。その下に埋まっているであろうことが分かっていても、どうにもできませんでした。もし、自衛隊がいてくれたら・・・。
それと、消防車や消防隊員はいるのに肝心の水がすぐになくなってしまったことが悔やまれます。水が底をつき、消防隊員たちは成すすべもなく、ただ炎を見て立ち尽くすしかありませんでした。
あの日から、一か月以上経ったある日、迂回すれば大阪に入れるようになりましたので、東京に帰ることにし、半日かけて、東京に帰りました。その際に一か月以上お風呂に入っていなかったので、途中横浜のサウナにより、きれいにしてから、帰ろうと思ったのです。
一か月以上入っていなかった私はサウナや水風呂、お風呂に入った瞬間に活き返りました。
まさに生きていることを実感した瞬間でした。
そして、思ったのです、お風呂屋さんやサウナ屋さんはこの世になくてはならない素晴らしい施設である、この世から、温浴施設が無くなったら、世界中の人々が死ぬかもしれないと。
そして今、私はその素晴らしい仕事のお手伝いをさせていただいています。
あなたも、一度体験してみてください。
一か月間お風呂に入らず、一か月後にお風呂・サウナに入った時のあの気持ちよさ、心と身体が安らぎにつつまれ、脳まで気持ちよくなったとき、これ以上の幸せはないのではないかとさえ思う、あの瞬間。
この体験を一度したら、温浴業を誰よりも誇りに思うことでしょう。
そして、一生の仕事とすることでしょう。
温浴施設経営に携わっているあなたは素晴らしい仕事をされています。
誇れる仕事です。
最近は親が子に子が親に対する犯罪が多くなっているように感じます。犯罪の多くは家族や地域社会のコミュニケーションの希薄さも一因ではないかと思います。温浴施設は年代や世代を超えて楽しんでいただけます。親子や、お爺ちゃんお婆ちゃん、お孫さん、三世代が裸になってコミュニケーションがとれる唯一の施設です。
そういった場所を提供することで、家族や地域社会の絆を少しでも深めることに貢献でき、地域社会から信頼される存在になることが会社の発展に間違いなく繋がることでしょう。
もっともっと、温浴施設の仕事に就いていることを誇りに思い、人々に癒しや安らぎを与えてください。あなたが地域に癒しや安らぎを与え、社会に貢献していることで、人々の生活レベルが向上し、犯罪を減らし、医療施設の負担を少なくしていることを絶対に忘れないでください。
そして、成功を夢見、決して最後まで諦めないでください。
諦めなければ必ず成功します。
成功するまで、辞めないでください。
あらから15年、東遊園地で行われた「1.17のつどい」に参加した際、5時46分に黙とうを捧げながら、そこかしこですすり泣く声をたくさん聞きました。
その瞬間、『休んではいけない、死ぬ気でもっともっと頑張らねば』と我が身を鼓舞する自分がいました。
私には皆様の施設の業績を向上させるという大きな役目の他に日本サウナ党、日本水風呂党の代表として、サウナ伝道師として、水風呂伝道師として、日本中にサウナの良さ、水風呂の良さを布教して行くという任務があります。
それと、もう一つ、海外にはホテル経営やレストラン経営など、専門分野を学ぶための大学があります。日本においても専門学校等で学ぶことができますが、温浴施設経営に関しては学ぶための学校が存在しません。
いつしか温浴施設経営を専門に学ぶことができる学校設立に尽力したいと考えておりますので、今以上にもっともっと努力し続け、少しでも温浴業界に貢献できますように日々精進してまいります。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。